デラウェア

こどものころ、夏休みになると

山梨のひいおばあちゃんが手伝っていたぶどう農家で、

毎日のように遊んでいた。

気が向くと、大人に混じって

ずっしりと重たいはさみで傷んだ粒を取り除いたり、

箱を組み立てたり、少し大きくなると重さをはかって

透明なパックに詰めさせてもらったりした。

ひいおばあちゃんはとびきり甘く、

何をしてもすごく褒めてくれたので、

得意になって、大人と同じ顔をして働いたような気になっていた。

 

お茶の時間に出てくる、あのあたりでは「おこうこう」

と言うお新香には、けっこうしょっぱいのに、

さらにお醤油がかかっていて、

その上に味の素という禁断の結晶がきらきらと光っていた。

 

その時にいやというほどこのぶどうを食べたので、

中学生くらいから、巨峰のほうが美味しい、

などと生意気なことを言って

しだいに口にしなくなってしまった。

 

すっかり大人になったいまでは、

このぼんやりとした甘酸っぱさがなつかしく、

もうひとつ、またもうひとつ、と止まらなくなる。

 

この明治生まれのひいおばあちゃんは、

93歳で亡くなるまでひとりで暮らして、

身の回りのことはすべて自分でやっていた。

冬はこたつだけでほとんどストーブを使わないので、

遊びに行ってもこたつからちょっとも動けない。

肌はいつもぴかぴかだった。

 

ひいおじいちゃんの仕事の関係で台湾に住んだことがあって、

ビーフンや、お客さまがくるときに作ってくれた

ピーナッツ豆腐が、美味しかった。

レシピを聞いておくんだったな。

サラダの仕上げにはに干しぶどうや、サラダ味のプリッツを

ぽきぽき折って飾らせてくれた、洒落たひとだった。

夏にひいおばあちゃんの家に泊まるときには、

蚊帳を吊ってくれた。

その中に入ると、やけに楽しくてなかなか眠らなかった。

 

八四五(やよい)さんという名前の通り、

計画したかのように8月4日の5時に亡くなったのも、

あのおばあちゃんだったらありえる……

と親戚みんなが顔を見合わせて納得するようなひとだった。